top of page
  • tsunemichiaoki

勉強そして読書はいつまでする必要があるの?

読書

本日もセミナービジネス研究所の記事をご覧いただきありがとうございます。あらゆる経営者の方が事業を発展させていく上で、セミナー展開の価値、メリットを感じていただくために、セミナー展開で御社の事業あるいは経営者であるあなた自身のアピールをしていただきたいと考えております。

そのために、セミナー展開をどのように行っていけばよいか、という基本をお伝えするため、そしてご参考になるのでは、という記事を書き連ねております。


私のこの記事をご覧いただくような方は間違いなく勉強熱心な方と思っております。そのための情報収集を常にしておられ、ネットでの情報収集、読書による情報収集と活字に触れている時間と頻度はかなりある方ばかりではないだろうか、と思っておりますが、それはある意味終わりのない世界ですよね。

どこまで勉強すればよいのか、情報収集も何が終着点なのだろう、と思うときもたまにある、というのが私自身の嘘偽りない状況です。


そのような時に、ネットで調べ物をしていた際にある偉人の名言というサイトに出会いました。



今日はそこを起点とした、読書についてのエッセイになります。それでは今回の本文をどうぞ。




あるベテラン経営者の方と意見交換をしていたときのことです。

「読書は価値があると思えないのでもうほとんどしなくなった」

という自分にとってはなかなか過激な意見が飛び出してきました。



自分よりだいぶ年上の方なので、活字を読むのが老眼のために大変なのかな、と想像したのですが、どうやら違うようなのです。

あくまで推測の域を出ませんが、読書で他人の書いたものを読んでも得るものがあまり少ない、という意見をお持ちのようだったのです。



それ以上はその論点に関する意見交換をしても意義ある状況になるようには感じられなかったのでその話題は打ち切りました。



ですが、本質的には私は上述のベテラン経営者の方とは考え方はかなり異なります。




もちろん、自分よりかなり年上の方だったので、自分がその年齢になった時に果たして今同様の見解を持ち合わせているかどうかは保証しかねます。




しかしながら、講師として長年第一線でご活躍だった方で、80歳を機に引退された方に先日お会いした際にはこのような言葉もお聞きしました。


「小説ばかりだけれども、ずいぶん読書量が最近増えてね・・・」


文庫本でも昔のものに比べれば今は活字も大きくなり、本当に読みやすくなったと思います。80歳の方であれば間違いなく老眼は進んでいるはずですが、お聞きするとびっくりするくらいの読書量でした。



暇つぶしだよ、とご本人はおっしゃっていましたが、たしかに娯楽ではあるかも知れませんが、ただ単にボオーとテレビを見ているよりはるかに、小説を読んでいる老人のほうに私は憧れます。



そのような思いで日々過ごしている中で、アインシュタインの言葉に触れる機会があったのが、冒頭に記したある偉人の名言、ということになります。今週もアインシュタインで行きますね。




その言葉とはどのようなものだったか。

ある本から引用しましょう。



「読書というものは、ある年齢をすぎると、創造的な仕事に使うべき集中力が奪われてしまうように感じます。本を読みすぎて自分の頭をほとんど使わずにいると、思考力に怠け癖がついてしまい、ちょうど演劇をよく観る人が、自分の人生を生きる代わりに芝居の中の人生で満足してしまうようになるのと同じことになってしまいます」


(「アインシュタインの思考哲学」ダニエル・スミス著 文響社)



さあ、この言葉、あなたには何か響きますか、そしてそれはどのように響きますか。





つい最近この言葉に触れたときの私にとっては、衝撃が走る、というものではさすがにありませんでしたが、


そうだ、これを忘れてしまってはいかんぞ、という気持ちがすぐに出てきました。



アインシュタインの言葉だったかまでの記憶はないのですが、以前にも同様の言葉かそのような論調の文章に触れていた記憶が蘇ってきたのです。


読書ももちろん大事だけれど、そこで学んだことをどのように実践、実務で活用していくかのほうがより大事だよ、という発言あるいは文章は、あなたもおそらくどこかで目にしている、あるいは耳にしていると思います。


しかし、読書をしていると、それだけで勉強しているように感じてしまうこともまた事実。そのバランスを失しないようにしないといけない、という戒めと私は理解しています。




本は著者と対話するように読むことが大事、ともよく言われます。


熟読する上での極意のようなものと私は感じています。

とはいえ、なかなかそれは簡単にできることではありません。


私の場合、本を書く側でもあり、その意味するところ、意図するところはよくわかります。

そんな読み方をしていただければ著者冥利につきます。


ですが、頭ではわかっていても、自分で読む際にそれができるかどうか。

一度通読、というレベルではまずできません。


では同じ本を2度3度と読み込んでいけばどうか。

多少は変わるでしょう。


そう考えていくと、YouTubeでよく名著の解説をされている方の動画にめぐり逢います。あの方々の咀嚼力は本当に凄いな、と思います。とても私には真似ができると思えません。


ですが、その真似をするつもりで1冊の本と向き合えばどうなるか。

動画を作らないまでも、自分なり咀嚼して他の方に勧めるとしたらどの様になるか。


読書ノートをつけましょう、ということもお聞きになったことがあるのではないかと思います。



ある出版社の社長から言われたことを思い出しました。



「速読はダメ。一冊を熟読玩味しなければ、それは読んだことにならない」



ただ単に、端から端までページをめくって、そこに記されていた単語は目にした、という読書になっていないか。

もし真剣にその問いを自問自答すると、私の場合、とても皆様にはお伝えできないような結果になりそうだ、ということをここまで記していて気づきました。


知識不足を埋めるために、読書は非常に良い手段だと思っています。

ですが、ただ単に読んだ、ではあまりにもったいない。自戒を込めて記します。


年齢を重ねても読書によって能力は向上すると私自身は思っています。




あるコンサルタントの方の吉田松陰に関する著作から知ったことがあります。


吉田松陰は、本を読む際、エネルギーの半分を読むことではなく、書くことに費やしていたそうなのです。

それは書き写すことが主だったようです。そして自分で作成したその資料を時間が立ったら読み返し、なぜそこを書き写したのか、を感じる、考えることによって成長することができる、という考え方です。




年齢を重ねても、まだまだ人間は成長できると改めて思います。

自分にはまだまだできていないな、ということ感じることが多々あるからです。




アインシュタインの言葉からだいぶそれてきてしまいました。


読むことはとにかく大事。それが起点であることは間違いありません。

その上で、その読んだ後が何よりも大事。


ということを肝に銘じたい。


今日の結論です。

読書に関してはもう少し続けたいと思います。


(了)

閲覧数:8回0件のコメント

Comments


bottom of page